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回顧録1 ヤオハン破綻で迎えた転機

人生すべてが順風満帆ということはまずない。起伏の落差は人それぞれだろうが、山あり谷ありの人生が普通だ。
 私の場合、ジェットコースターのような急転落劇があった。大体、企業が成長するのは、野菜が育つのと同じように、時間が必要だ。しかし、転落の谷に落ちるときはあっという間だ。
 経営者として私が、試練の嵐に遭遇したのはヤオハンジャパンの破綻に巻き込まれたからだった。
 忘れもしない1997年、和田一夫氏が率いるヤオハンが1600億円の負債を抱えて倒産すると、とたんに連帯保証の矢のような催促の嵐に翻弄される羽目となった。
中国に進出したヤオハンと運命共同体のような立場にあったから、保証人としての責任を免れる道はなかった。LCの枠をつくるために、4行の銀行に、故人保証までしたことがあだとなり以後、ありとあらゆるミサイルが飛んできた。
 だが後日、こういうことが起きたことは自分におごりがあったからだと反省した。沖縄から出てきて、財界人や政治家とも顔が利くようになって増長していた。つっかえ棒がいっぱいあっても足りないぐらい、ふん反り返っていた。普通なら個人保証などしない。
 やっぱり、みんなが私を頼りにしているとの思い込みでつけ上がった結果が、ヤオハンの破綻だった。それは半端じゃなかった。

 ヤオハンがつぶれる前までは、沖縄県知事を始め政界も財界も陳情に列を成すほど来ていた。しかし、ヤオハンが危ないとなると、潮を引いたように見事にぷっつりと途絶えた。そして、人一人誰も来なくなった。それどころか、「ほら吹き下地」などと陰口をたたかれた。
 宝くじに当たると、とたんに親戚が増えるという話を反転させたような話だ。
 その時、つくづく思ったものだ。ふるさとは苦しい時にこそ、頑張れよと励ましてくれるものだろう。それがふるさとのいいところだと思う。それが全くの予想外の結果だった。裏切られたような気になって、二度と沖縄の土は踏まないと決心した。
 結局、ヤオハン事件以後の10年間、沖縄に出向くことはなかった。
 たまたま9年ほど前に還暦を迎え、中学校の同級生が集まる機会があった。それには行けなかったものの宮古島に行く契機になった。同級生が10人ぐらいが集まって、その時の真情をぶつけた。
 すると同級生たちは、「俺たちが一回でもそういうことをしたか。電話しようにも、電話番号すら分からなかった」と言って、みんなが励ましてくれた。
 ジーンとくるものがあって、反省した。あの時、宮古島に帰ってみんなと直に会っていれば良かったのに、かえって不義理をしたのは私の方だった。みんなに悪いことをしたと心底、思った。
 故郷は誰にとっても、犯すべからざる聖地だ。その聖地が聖地として残った。

 実は、ヤオハン本社の香港移転を和田一夫会長にアドバイスしたのは私だ。
 香港で華人系最大の銀行である東亜銀行のデビッド・リー頭取が、香港ヤオハンの相談役に就任した。それ以来、リーとは25年以上の関係が続いている。東亜銀行というと、中国での支店数は80カ所ぐらいで、香港の銀行としては一番支店数が多い。アジア銀行協会の会長をやっているのもリーだ。
 そのリーから突然、「ミスター和田はだめだ」と言われてびっくりしたことがある。
 リーは「私は銀行家だ。ずーと協力してきたけど、ヤオハン店を各地で立ち上げながら、うちの東亜銀行を一回も使ったことがない。そういうことを、こちらから言うわけにはいかないが、私にも面子がある。下地には何もうらみはない。だが、和田はだめだ」ときっぱり言って、リーは全面的にヤオハンから手を引いた。
 ヤオハンが1997年に香港から上海に本社移転したのは、そういう経緯もあった。
 和田会長には「あなたは経営者だ。学者じゃない」と何度も苦言を呈したものだ。一回の講演で100万から200万円の講演料が入る。1カ月のうちに2週間以上が講演のスケジュールで埋まっていた。月にすると、講演料だけで2000万円は入る。
 しかし、それで和田会長は経営者ではなく、講演家になってしまった。
 確かに、講演だけやっていれば「アジアの流通王」ともてはやされ気分はいいだろう。だが、その講演に足をとられて本業がおそろかになった。

回顧録1:ヤオハン破綻で迎えた転機回顧録2:ヤオハン、転落の坂道回顧録3:お袋と交わした最後の言葉 母の死
回顧録4:身を助けた祖母の言葉回顧録5:日本経営者同友会 創始者・石原慎太郎氏