回顧録2 ヤオハン、転落の坂道
静岡県熱海市の八百屋「八百半」を、30年間で世界的な流通・小売業「国際流通グループ・ヤオハン」にまで発展させた和田会長ながら、脇の甘さは他にもあった。
ヤオハンは搶ャ平の娘である撼ユの人脈を使っていた。しかし、「和田さんね、政治というのは変わるから、搶ャ平一辺倒だけではだめだ。満遍なく付き合っていかないと、政治的な変動に対応できなくなる」と忠告もした。
搶ャ平に恨みを持っている人もいるわけだから、経営者とすれば、いつ政治的な風向きが変わっても対応できる手も打っておかないといけない。そして、中国人脈を一手に引き受けていた田島正一副社長が脳梗塞で急死してしまった。それからヤオハンは、坂道を転げ落ちるように転落していった。
和田会長は現在、上海にいる。結構、日本でも講演していると聞くが、行ったり来たりして講演しているのだろう。その意味では今が一番、和田会長に向いている生活になっているかもしれない。
ともあれヤオハン破綻のあおりを受け、私のほうはごっそり財産がなくなったし、ワゴン車一台分の骨董品も消えた。取立てのプロが、ついでに持ち去ったのだ。
ヤオハン破綻後、取り立てが過激になってきた。家賃150万円の早稲田のマンションを引き払って、千葉の家に家族を移した。夜逃げ同然の引越しだった。今日、電話したら明日引越しといった具合だ。
ヤオハンが破綻した時、家の名義はたまたま家内のだった。これが私名義だったら、千葉の家も取り立て対象になっていただろう。
だが、取り立ては月を追う毎に厳しくなっていった。
とうとう千葉の家にも取り立てがやってきた。子供の生命保険だとかも全部、押さえてきた。
私の住所は神田のままで、千葉に移してはいない。これは金融会社の露骨な嫌がらせに対抗するためだった。相手は取り立てのプロだから、ありとあらゆることを仕掛けてくる。
それで私は家内に「別れよう」と持ちかけた。これ以上、迷惑を掛けたくないと思ったからだ。
すると、家内から「あなた、そう簡単なものじゃないわよ」と言い返された。
あの時に、僕が全農会長の大田の息子と言っていたら大変だった。家内は大田全農会長の箱入り娘だった。
それを、ひた隠しに隠し通し、一切、口が裂けても大田という名前は出さなかった。
ヤオハンの破綻は正直、自分の人生を変えた。
私の今の仕事は毎日、日本経営者同友会の会員企業の相談に乗ることだ。会員企業の資金問題や物を売ってくれといってきたり、ヤクザに追われているとか、弁護士を紹介してくれとかいろいろだ。ある意味ではよろず屋そのものだ。
それで毎日、こうしたよろず相談を30年も続けていると、全部、自分の経験からものが言えるようになってくる。最近、年をとると余計、磨きがかかって話を聞き終わるころには、解決の道筋が見えてくるようになっている。
大体、人に相談することというのは、プラスの話はない。うまい話というのは、人に話したりなんかせず黙ってやる。時に聞くほうでさえ、気が重くなるようなマイナスの話ばかりだ。それを無料で引き受けている。
ヤオハンの破綻さえなければ、と思わなかったといえば嘘になる。だが、後悔はしていない。
あれがあったから、腹が据わった仕事ができるようになった。それまでは単なる成り上がり者に過ぎなかった。船乗りが暴風雨の嵐を知らないようじゃ使い物にならないように、どん底を知らない経営者というのは危ういものが残る。
結局、どんなことがあっても投げやりにならないというのは、あの経験があったからこそのことだ。
その意味ではヤオハンの破綻は、私の人生観をガラリと変えてくれた。
昨年、仕事の途中で倒れたこともあった。信濃町の慶応病院1号室に1週間ほど入院したが、それでまた、人生観が変わった。
よく「三トウ」精神を言う人がいるが、一理あると思った。「三トウ」というのは「倒産、投獄、闘病」の3つだ。
私は投獄された経験もあり、倒産もあったが、最後の闘病がなかった。
それが昨年、突然、倒れて意識を失った。運ばれた病院のベッドの上で「あれ、何で私がここにいるのか」と思ったものだ。そのまま、すっといく人もいる。
神様が助けれてくれた。命を頂いたと心底、思った。結局、まだ自分には、地上でやるべき仕事があると確信した。さらに、周囲を整理しとかないといけないとも思った。
世の中は、上には上があるものだ。善悪というのも、たまたま人間が悪というだけで、価値観の問題が絡んでくる。今、一人二人殺せば死刑だが、1万人殺せば、クーデターや戦争では英雄だ。